建機の酒井重工業

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SAKAInews
保水性舗装の必要性
 大都市部では、ヒートアイランド現象が起きております。この現象の原因は、都市の地表面被覆の人工化・冷房や自動車による人工排熱・コンクリート構造物による蓄熱・開発による緑地の減少などがあります。これらの熱が、日中や夜間の気温上昇の原因とされ、高温時間が長くなりその範囲も拡大しています。環境省の発表では、20年前と比較して、30゚cを越えた延べ時間が、東京・名古屋で2倍、仙台では約3倍に増加しており、さらに中小都市でも熱帯夜の発生日数が増加しているとのデータがあります。都市が高温化すると、熱中症や睡眠障害などの健康被害の拡大・植物の開花時期や池の水温上昇による生態系への影響・冷房負荷の増大によるさらなる人工排熱の増大や電力消費による二酸化炭素の排出量の増大など、人や自然環境に悪影響を与えます。
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打ち水の発想で
ヒートアイランド現象を緩和
 
保水性舗装の構造
 ここで、都市の地表面被覆の人工化とは、道路や駐車場などのアスファルト舗装が挙げられます。これまで排水性舗装や透水性舗装など、水を意識した舗装が開発されてきましたが、このヒートアイランド現象の緩和に効果が期待されている舗装に、保水性舗装があります。この舗装は、従来の開粒度アスファルト混合物の空隙に吸水性ポリマーや鋼炉スラグ、特殊セメントなどの水機能を持つ材料を充填し(写真1)、舗装に水分を吸収・保持させ、水分が蒸発する時に熱を奪う(気化熱)ことにより、路面温度の上昇を抑制する(いわゆる”打ち水”の効果)ものです。

写真1
 
保水性舗装の施工事例と効果

 保水性舗装の施工事例は、1999年に大阪市で試験的に実施され、日中の路面温度が通常舗装より9度低くなる結果となり、温度上昇の抑制の効果が確認されています。

 東京都では、2001年に新宿と調布市の2カ所の都道と研究所構内の計3カ所で、試験的に実施しました。昨年5月には、新宿で保水用水に下水を高度に処理した下水再生水を使用する、公開散水実験を実施し特性調査を行いました。この散水実験は、月に1回以上行われ、今年3月まで続けられます。また、2002年6月には、

保水性舗装は未だ試験施工の段階であり、保水材や施工方法において技術開発の余地がまだ残されていると考え、受注者の技術力、工夫を活かしやすく、新技術の開発や性能向上が期待される

として、中央区京橋の工事において、性能要件発注方式で工事が発注されました。性能要件の内容は、路面低減温度(12゚c以上)、保水量(6.5kg/m2以上)、すべり抵抗(60km/hで0.45以上)の3要素が求められる性能となっています。その他、港区汐留の整備地区では、環境にやさしい保水性舗装として、昨年7月から今年3月にかけて車道に採用されています。

 千葉市では、2001年12月から昨年3月にかけて、JR千葉駅の駅前広場に保水性舗装を実施しました。同様の舗装を施工した試験ヤードで、昨年8月に温度測定試験が行われた結果では、降雨量5mmに相当する1m2当たり5Lの水を散水した場合、通常舗装の温度が55゚cであったのに対し、散水初日で最大17゚c、2日後で10゚c、4日目でも5゚c程度の温度差が確認されています。

 
汐留交差点付近
 
今後の課題
 この保水性舗装も水が無ければ、温度低減という機能を果たすことはできません。今後の課題は、降雨時に速やかに保水し、より効果が持続できるような保水材の開発や施工方法の研究、また、降雨がない時の路面への散水方法などが挙げられ、各機関で追跡調査・研究が行われております。
 環境省の研究では、総合的な対策を複合的に講じる(建物排熱50%削減、交通排熱20%削減、保水性舗装を舗装面の50%に採用、建物屋上面積の50%を緑化)ことで、30゚cを越える地域・時間数が現状より21%減少することが予想されると発表しています。道路舗装は、交通環境の改善を目的に進化してきましたが、今後は都市環境改善の一端を担うことになると思われます。
   
 
  古道を訪ねて
 
日本の道の歴史をたどって3回目、今回は300〜400年前の江戸時代、皇女和宮の降姫使用街道で有名な中山道(ナカセンドウ、中仙道)を中心にお話をします。
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 江戸時代までは、日本の道にとって、特段発展した形跡はほとんどありません。
 なぜなら、その間はほとんどが戦国時代で、日本国中戦いに明け暮れていて統治、産業発展のための道路づくりは、皆無に近かったといえます。
 あったとしても、領土内の軍事用目的道路(武田信玄の棒道等)整備ぐらいだったようで、戦国末期、ようやく全国制覇しようとした信長が、関所を廃止し、街道を整備し始めようとして、着手半ばで頓挫しましたが、その後、秀吉が全国制覇を成し遂げ、信長の志を継いで近畿中心に整備を始めました。
 その秀吉の死後、徳川家康の江戸時代からは、江戸を中心とした五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)の整備が始まりました。
 また、それ以外の街道も、五街道の整備に準じて整備され、現代の国内道路交通網の原型が出来上がってきたと言えそうです。

 道路幅の規格は厳密ではなく、東海道クラスで5間(約9m)となっていますので、結構広そうですが、中山道(関東では中仙道の方が親しみやすいが、古くはナカサンドウと読んだとのこと)では実道路幅2〜3間(約3.6〜4.8m)で、宿場内の道路幅は5〜6間(約9〜10.8m)だったようです。
 道路構造的にも歩きやすいように凸凹を修正するために砂、砂利を敷く程度で、律令時代の道路構造にも劣るような道路構造ではなかったかと思えます。
 しかし、道中奉行をおいて整備清掃を行わせていたので、常に道路面は補修し平坦性が保たれ、ヨーロッパからの旅行者を驚かせていたほどの美しい道路管理であったようです。
 

道路は時代と共に姿を変えていく。
埼玉県内を走る現中山道

 桶川宿跡を示す石碑
 
 鎌倉時代の武士の世になると、戦術面優先の道路づくりになり、最小限の道路幅と、道路支持力しか求めなくなったような気がします。
 戦乱の世に、各大名が街道に関所を作り、人や物に通行税をかけ、人や物の流れを阻害した政策を取ったことが、産業・物流の発展を遅らせ、結果的に道路構造の発達を遅らせた大きな要因の1つではなかったのではないでしょうか。
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 筆者が考えるに、道路(街道)に古代より陸上物資輸送の重要性を継続して認識し、牛車・馬車の往来に耐えられるような道路構造等を考えていたなら、それを途中の時代が許していたならば、全体の道路構造は長い歴史の中で継続整備が行われていたことでしょうから、現代にはもう少し違った都市構造になっていたのではないかと、筆者の無理なこじつけ方を私見結論として、はっしょった「道の歴史」シリーズを終えたいと思います。
   
 
今回も埼玉県立歴史資料館の比企歴史の丘教室、講師・杉山正司氏の「近世の道」より参照させていただきました。
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